こちら庄内平野ど真ん中の人間。庄内の自然豊かで芳醇な文化、人々の暮らしを気ままにつづっています。
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 瑞巌寺は、天長5年(828年)、慈覚大師円仁によって創設された奥州随一の禅寺で、伊達政宗公の菩提寺である。
国宝瑞巌寺の案内

青葉城の政宗公像

 現在の建物は、、 政宗公が5年の歳月をかけて桃山様式の粋を集めて、慶長14年(1609年)に完成させたものである。
 建築にあたっては、 諸国から名工130人を集め、桧、杉、欅の建材を熊野に求め、京都の根来の名工を集め5年がかりで完成させるなど、奥州の覇者としての意気込みが感じられる。  
 日本的な自然をモチーフにした唐戸や欄間、あるいは襖や床の間の豪華な障壁画は、美の極致に達する作品と言え、政宗公が心血を注いだ荘厳な大伽藍と言っていいでしょう。

 十一日、瑞巌寺に詣(もうづ)。
 ……雲居禅師(うんこぜんじ)の徳化に依りて、七堂甍(しちどういらか)改まりて 金壁荘厳(こんぺきしょうごん)光を輝、仏土成就の大伽藍とはなれりける。  (松尾芭蕉 「奥の細道」)


上段の間の「梅竹図」
と、芭蕉によって謳われた障壁画も400年余りの時間の経過とともに、劣化も進み昭和60年より10年の月日をあてて保存修理、複写模写が行われ10年前に完成した。


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**更に写真があります。
  お時間があればご覧下さい。

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瑞巌寺の修行僧の部屋

瑞巌寺参道より松島を望む

国宝庫裡(くり)

文王呂尚図

松に孔雀図

上段の間の紅白椿図、牡丹図

尚、美術品は、撮影できませんのでパンフレットよりの複写になります。




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【2006/06/05 20:38】 | 奥の細道
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絶景ロケーション 松尾芭蕉が訪れた松島の五大堂

 今や松島のシンボル。ここは、大同2年(807年)、坂上田村麻呂が、毘沙門堂を建立したというから由緒は古い。


すかし橋を通って 後に、慈覚大師円仁が円福禅寺(瑞巌寺の前身)を開いた際、「大聖不動明王」を中央に、「東方降三世」、「西方大威徳」、「南方軍荼利」、「北方金剛夜叉」の五大明王像を安置したことから、五大堂と呼ばれる。
 五大堂へ渡る朱塗りの橋は床板が交互に抜けており、透かし状になっていることから『すかし橋』と呼ばれている。参詣には身も心も乱れのないよう、気を引き締めさせるための配慮とされる。東北では先駆けの桃山式建築

 現在の建物は、 伊達政宗公が再建したもので、桃山式建築手法の粋をつくして完工したものである。


今年はご開帳の年だ
 33年に1回五大明王像がご開帳され、今年の8月に祭典行事が行われるという。

【2006/06/03 06:49】 | 奥の細道
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 芭蕉は、「奥の細道」の中で松島の句を残していない。

 それは、『絶景にむかふ時は、うばはれて不叶』であり、松島では、「扶桑(=日本)第一の好風」をまのあたりにし、感動の余りに句が作れなかった。また、芭蕉らしく、絶景の前では黙して語らずと句を示さなかったとする見方もできる。日本三景
 しかし、「奥の細道」には収められてはいないが、芭蕉の句に「島々や千々に砕きて夏の海」という松島を詠んだものがある。
 「蕉翁全伝附録」には「松島は好風扶桑第一の景とかや。古今の人の風情、この島にのみおもひよせて、心を尽くし、たくみをめぐらす。をよそ海のよも三里計にて、さまざまの島々、奇曲天工の妙を刻なせるがごとく、おのおの松生茂りて、うるはしさ花やかさ、いはむかたなし。」と前書付きに残している。千々の島々が目の前に

 やはり、松島のすばらしい自然を前にした、あまりの大きな感動に自分の筆が及ばなかったとのことで、推敲の段階でこの句を意図をもって外したのでしょうか。


【2006/05/29 06:39】 | 奥の細道
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封人の家 正面 芭蕉が、宮城方面から山形方面へ曾良と共に進んできました。 芭蕉の奥の細道行脚の折、宮城県から山形県に入り、すぐのところにある現在でいう最上町。最初に投宿した家としても有名なのがここ封人の家です。封人とは、関所番人のことで、家の中に馬屋があり、芭蕉は曾良と共に、ここに泊まって、あの名句『蚤虱馬の尿する枕元』を読んだといわれています。
昭和44年に国の重要文化財に指定されております。
堺田の封人の家は、芭蕉が奥の細道の旅で宿泊した中で、唯一現存する民家(有路家)で、国の重要文化財に指定されました。一般公開されていて、内部を見学する事も出来、芭蕉が旅先で苦労した様子がしのばれます。庭には、ここで詠んだ有名な句碑も立っています。
 ここに来る前、尿前の関では、この道は旅人がめったに通らないので関所の番人に怪しく思われて、ようやく関を越すことができたと奥の細道に残されています。
封人の家 封人の家 側面よりのぞむ                封人の家 句碑












封人の家でいろりを囲んだ関所越えに苦労した「尿前の関」大きな山を登って行くうちに既に日が暮れてしまったので、封人の家(国境の番人の家)を見かけて一夜のとまりを頼んだ。しかし、三日間雨風が激しかったため、わびしい山中に逗留することになりました。  蚤や虱に悩まされる旅夜ではあるが、人と住まいを共にする習いの中、馬が枕もとで小便をするというのも心安く趣があるものだ、というふうに詠んでいます。芭蕉は、ここでいろりを囲んで主から歓迎をうけ不安な気持ちも和らげることができたのでしょう。

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【2005/10/29 20:12】 | 奥の細道
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「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。」で始まる奥の細道。松尾芭蕉をたどっていくことにします。しかし、わたしの時間の都合で、その場所その場所を順不同で紹介していくことにしたいと思います。芭蕉は、象潟町によっています。ここは芭蕉の足跡で一番の北側になり、ここから南下を始めていきます。
象潟町は平成17年10月1日より、近隣の金浦町、仁賀保町と合併し「にかほ市」になりました。ここでは、芭蕉は「象潟や雨に西施が合歓の花」と美女西施に例えて、象潟の風景を詠んでいます。芭蕉の旅した頃は松島と並び賞される裏日本の景勝地でした。その後、1804年(文化元)の地震で隆起し、島々は陸地と化してしまい、今では、水田の中の小山となっていますが、往時を忍ぶことができます。当時は、島があって芭蕉が立ち寄った蚶満寺には、句碑が残されています。

 

昔は松島のように海に浮かんでいた現在は、この写真のように水田に小さな島々が見えるが、当時は、松島のように島々が海に浮かんでいた。今、松島町にかお市は、夫婦町の盟約を結んでいます。蚶満寺山門いにしえの象潟は、波静かな潟に島々が浮かぶ、それはそれは見事な景勝地でした。当時は、松島と並ぶ名勝とされていました。ここを九十九島と言います。
 ところが、大地震によって、海底が隆起し潟の海水が失われ、現在の陸地になったのです。
・・・というわけで、ここ象潟は、海の底から生まれたロマンの町なのです!!
蚶満寺の句碑旅人芭蕉立像きさかたさんぽみち 











合歓の花この美しい花から、芭蕉は西施を思い浮かべ、またはかなさ、悲しみも感じたのでしょうか。

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【2005/10/23 20:52】 | 奥の細道
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