こちら庄内平野ど真ん中の人間。庄内の自然豊かで芳醇な文化、人々の暮らしを気ままにつづっています。
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遮那王が背比べ

義経が涙した立石・・

名残を惜しんだ・・

 これは、遮那王(義経)が16歳の時奥州平泉へ出発するときに背を比べた石と言われる、「背比べの石」。
 この石は、当時の義経と同じくらいの背丈だといわれているが、かなり低く約120㌢。わきに立ってみると、小学生くらいかな。いくら当時の平均身長が低いとは言ってもかなり低すぎると感じてしまう。
 背比べというよりは、平家打倒を心に秘めて修行で過ごした日々を振り返り、名残を惜しみ涙を流した場所の立石と考えた方がいいと思った。この石が立つここは、鞍馬参道で一番海抜が高い場所で昼でも薄暗いところである。
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【2010/10/04 19:37】 | 義経伝説
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 鳴子の位置
  義経が奥州平泉に落ちていく順路の中で、出羽の国と平泉の間が文献から抜けていてよく分からない部分である。
  しかし、それが今でも、伝説として伝えられ、石碑に刻まれ、そして、義経一行が置いていったお礼の品々が家宝として、東北の峠道の近辺にたくさん残っているのである。

  文治2年の冬(1186年)義経一行は、夫人の北の方を同伴して山伏姿で京都から逃れていく。



なきこの碑   一行の中で弁慶だけが羽黒山を参詣し、その後、北の方は途中で亀若丸を出産したが産声をなかなかあげなかったと言う。

 峠を越えたところの温泉で産湯につかって、初めて産声があげた。
 のことでこの土地は「啼子」(なきこ)と呼ばれ、現在の「鳴子」(なるこ)になったと、鳴子温泉には言い伝えが残っている。

【2010/10/01 01:24】 | 義経伝説
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牛若 京都市北区紫竹(しちく)に牛若という地名が残っている。京都市営のバス停にもなんと「牛若」と。

 この地で、義経の母、常盤御前(ときわごぜん)が牛若丸を出産し、牛若が幼少期を過ごしたところだと言われていて関連の史跡が点在している。

 混雑する世界遺産級の史跡は避けて、義経を追いかけて住宅地の中の2つの寺院を歩いてみた。
 

 常徳寺には、 常盤御前の守り本尊である腹帯地蔵が祀られている。非公開ということで、外から手を合わせてきた。

常徳寺1

常徳寺2

常徳寺3

 さらに、光念寺には、御前が牛若丸の安産を祈願して寄進したと伝えられる常盤地蔵が優しい顔で今もほほえんでいる。ご住職さんの許可をいただき撮影。皆さんには、別アングルになります。
光念寺1

光念寺2

光念寺3


【2010/09/28 01:56】 | 義経伝説
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 奥州へ向かうときに通ったわが東北にもその足跡とともに、弁慶にまつわる石はあるが、こちらは、その本家本元
 
 この石、由来書には、義経を守って奥州平泉でで「立ち往生」の最期をとげた弁慶が、幼年時代から腰掛けたりして遊んでいた石と言われている。その弁慶の死後、勇士をたたえる為に生まれ故郷の三条京極から奥州へ移されたという。が・・・

 この巨石、ある日突然として大声で怒鳴りだし「三条京極に往かん」とわめき出したという。これと同時に奥州平泉周辺で熱病がはやり、この石は弁慶の生まれ故郷の京都にかえそうとなって、室町時代に、三条京極にまたまた移された。以来当町を「弁慶石町」と名づけられたとか・・。
 その後、石は、明治に町内の有志により同町へ引きとられ、昭和になって現在の場所に建てられたという。
 ようじ屋さんのあるビルの前に立っていた。人通りの多い三条通にあるが、この「弁慶石」をどのくらいの人が知っているのでしょうか。
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【2010/09/16 21:15】 | 義経伝説
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岩手県平泉は、奥州藤原文化関連で今、世界遺産登録をめざしています。
 を惜しみなく使った「黄金文化」を築いた奥州藤原氏ですが、その勢力がいかに巨大であったのかの話しです。 

 二重堀がよくわかりますね


 
 それは、岩手県から130㌔も離れた福島県国見町一帯。
ここに「阿津賀志山(あつかしやま)防塁」があります。
義経の死後、奥州制圧に向かう頼朝軍を迎え討つために、奥州藤原軍が築いた防御施設です。「平泉政権」の終焉をつげる奥州合戦の戦場となったところです。

これは、奥州藤原氏が、源頼朝との戦いに備えて築いた国内最大級の防塁で、あの鎌倉幕府が造った元寇防塁(福岡市)に次ぐ規模になります。
 800年以上前に造られた全長3キロの防塁は、今もほぼ原形をとどめており、国史跡になっています。
 防塁は阿津賀志山の戦いの直前に完成したとされていて、幅15メートルの間に二重の堀と三重の土塁を張り巡らし、阿武隈川と西側の山間部に挟まれた平野部を遮断するように連なっています。藤原氏が頼朝軍の北進を止め、この地で合戦をするために完成まで延べ25万人を投入して築いたと言われ、奥州藤原氏の支配力の巨大さをうかがうことができます。


 

【2010/09/13 09:39】 | 義経伝説
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 阿津賀志山防塁のお話にお付き合いください。

この防塁のことは、教科書に出てこないし、受験にも関係ないところ。まだ、分からないことが多いのです。

 
 3㌔の防塁のうち1.8㌔ほどの区間で堀の埋め土を取り除くなどして復元していきます。
これにより、奥州藤原氏の土木技術が解明されて、さらに、武具や兵士の骨などが発掘されて、両軍の交戦場所や本営と武将の配置など戦いの様子が詳しく分かってきます。
地図Ht_fig001


 10万人以上とされる頼朝軍は、3日間総攻撃を仕掛けても防塁を突破できず、2万人の藤原勢にはじめは苦戦していました。
 そこで、頼朝軍は正面突破を断念して藤原勢の背後からの奇襲作戦に変更して勝利したのです。

この戦いで頼朝は全国統一を決定的にし、鎌倉幕府誕生につながっていきます。

 この合戦は、平安末期の天下分け目の戦いと言える重要な合戦だけに、奥州藤原氏の行政、軍事システムの解明につながれば、距離的には離れているものの、世界遺産登録に力をいれている平泉にも弾みがつくと思っているところです。



【2010/09/09 19:52】 | 義経伝説
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東北には、義経にまつわる足跡や伝説が数々あります

その中のひとつに、

義経はどんな顔をしていたの?




これには、明快な答えはありません。


源義経の肖像は、いろいろあります。


中尊寺蔵

p-Yoshitune2.jpg
国立近代美術館蔵

s-Yoshitune1.jpg
毛越寺蔵

「源平盛衰記」には義経を指してこのような表現が使われています。
面長くして身短く色白くして歯出でたり。」

このように「小柄で色白、反っ歯であった」といわれていますが、

その波乱万丈の人生の結末が、「悲劇のヒーロー」とされて、

現在にいたっては、

多くの人の中に、

「色白の涼やかな目元の美男子」

「勇ましい武将」

といった義経のイメージが作られているといえるでしょう。






【2010/09/06 19:01】 | 義経伝説
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 義経の巻物と言うと弁慶の勧進帳を思い出すけど、別の巻物が今も伝えられている。それは、義経一行が一宿一飯のお礼にと巻物を進呈して行ったものと言う。
 山形県の山里で、山伏に姿を変えた義経一行に宿を頼まれた。 佐藤家では、一行を義経とは気付かず、自分たちと同じ大根と蕪の漬け物を食べさせた。そのお礼にと、義経たちが置いていった巻物が今も残り、佐藤家ではそれを代々ご神体として神棚に祀られているという。
 あとで、あのご一行は山伏姿に身をかえた義経一行と知り、大いに後悔したそうだ。それ以来毎年、旧暦10月15日に佐藤家では鮭の切り身里芋をみそで味付けした特別な鍋料理を作り、神棚に捧げている。
 かつて義経一行に質素な大根の漬け物しか出せなかった先祖の思いが今守られ伝えられ
、年に一度、たくさんの人たちが見守る中、ほんの数秒だけ大日様(山形新聞 2008年11月)のご神体がご開帳されていてその見え方で運勢がわかるそうだ。

【2010/09/04 04:12】 | 義経伝説
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