こちら庄内平野ど真ん中の人間。庄内の自然豊かで芳醇な文化、人々の暮らしを気ままにつづっています。
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津軽海峡を渡って北海道へ行ったとも云い伝えられてる。ズバリ!義経寺
 これを裏付けるように青森県内には義経にまつわる話が多くあり、特に三厩(みんまや)村は北海道へ渡る最短拠点だったため、義経に因むものが残っている。
 村名の由来につながる厩石には、義経を北へ導いた観音様を祀っている「義経寺」(ぎけいじ)があり北行伝説はますます現実味がある。
 追っ手を逃れて北海道へ渡ろうとした義経は、荒れる津軽海峡の荒波に行く手を阻まれた。そのとき、観音様を置いて大岩の上で祈りつづけると、海は静まり岩の下の洞穴に三頭の龍馬(りゅうば)がつながれていた。これが「三馬屋→三厩」の地名のいわれだという。 見る方向によって表情が違ってくる

 そして、時が流れ江戸時代に円空がこの地を訪れた際に光る観音様を見つけ、その由来を知り、仏像を刻んで観音様をその腹中に納めて、これが龍馬山(りゅうばさん)義経寺に青森県重要文化財として現存している。



 目の前に広がる海は群青や青と天気により変え、義経が渡ったとされる北海道の地は彼方にはっきりと見て取れた。

ランキング参加、どうしようかな・・・






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【2006/04/30 09:09】 | 義経伝説
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 世界遺産に登録されている奈良県斑鳩町の法隆寺で、東大門(国宝)の柱が石のようなもので「みんな大スき」などと落書きされているのが見つかった。落書きはヒノキ柱(外周1・25㍍)に、硬い物をこすり付けるようにして傷つけて書いていた。なんでこんなことを・・・
 法隆寺ではこの2月にも、国宝の建物「西室(にしむろ)」の格子が切断され、仏像が盗まれる事件があったばかり。

 また、第二次世界大戦の空襲でも焼けずに残った名古屋城でも、国の重要文化財の東南隅櫓(とうなんすみやぐら)と表二之門(おもてにのもん)に、人名など多数の落書きが分かった。
 東南隅櫓では、柱2本に「かず」「みゆ」などの人名や相合い傘がコインのようなもので彫って書かれていた。表二之門では左右の鉄製扉に同じく人名などが書かれていた。許されることでない・・・
 文字の薄さや「2000年」の記述もあることなどから数年前に書かれたものとみられる。発見が遅かったのはどうしてなのだろうか。
 落書き好きの日本人。ちょっと前までは、パリやスイスの観光地まで、日本語でかなりの落書きがされていたものだ。同じの日本人としていやな感じになったものだ。
 日本人の中には、まだ文化程度が低いものが多数いるということである。嘆かわしい限りである。GWで行楽地では賑わいを見せるけど、こんなことが今後は一切ないようにしたいものだ。

みなさんのおかげです







【2006/04/27 06:37】 | 諸々雑感
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文字色 青森県の八戸市(はちのへし)には、義経が三陸海岸に沿って船で逃げのびて来たという伝説がある。義経は平泉では自刃せず、ひそかに脱出したとされる地名として残っている

 義経は、思い出多い平泉を後にして、海路、八戸に上陸ししばらくここで暮らしたという。その地名が、源氏のお屋敷という意味の「源氏囲内」(げんじかこいない)という地名で今も使われている。
 義経は、ここ現地に生息している「南部馬」での騎馬を使った決戦も覚悟していたと地元の人は言う。珍しい名前だが結構多い

 このときに、義経は、身の回りの世話をしてくれた娘と恋に落ちたという言い伝えがある。義経に見初められたこの娘は、義経自身の名前の「判官」(はんがん)という姓を名乗るようにといわれた。しかし同じ名前ではあまりにも畏れ多いとして一文字を変えて、「法官家」(ほうがん)と名乗ることにしたという。現在も「法官家」は地元には多い。さらに、町はずれには「高館(たかだて)」と呼ばれる丘があり、義経が平泉の「高館(たかだち)」に重ね合わせたためその名が付いたといわれている。

 もしこれが義経一行の足跡痕跡だとするなら、何を物語るのだろうか・・・。

みなさんのおかげです








【2006/04/26 05:18】 | 義経伝説
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 会津地方の伝統産業と言えば「」。桐は、温暖な気候では病害虫の影響を受けやすいが、会津盆地のような寒冷な気候では生育が良いとされる。さらに、会津は雨や雪が多く土壌も豊かなために、年輪もしまり美しい木目をもつ桐に成長する。家具に加工しても見た目が美しく材質もよく超高級品である間もなく花の季節がくる
 昔から、「女の子が生まれると庭に桐の苗木を3本植えよ」と言われていた。桐の生長は早く、娘が成長して二十歳で嫁入りするとしても、15~20年経つと成木となり3本の桐があれば、その材料で桐タンス長持ちを作ってやり嫁がせたという。桐は家具材に適すると同時に成長が早く育つことからこうした風習が根付いたのでしょう。
 また、火事のときに桐タンスは黒焦げになったが、中の着物は無事だったという話もある。これは、桐は火にも水にも強いという特性からである。
 1つ目は、桐は着火点が高いので、表面が焦げても中まで火がまわるのに時間がかかる。2つ目は、他の木材に比べ吸水性に優れるので消火の水を直に吸収する。たくさんの水を含むと当然燃えにくくなり、同時に木が膨張するので引出しや扉の隙間をふさぎ、内部に消火の水が入るのを防いで大切なモノを守ってくれる。昔から、「火事になったら桐タンスに水をかけろ」と言われてきたのはこうしたことからで、桐という素材を知り尽くした先人達の知恵である。タンスの他にも高級な美術工芸品を収める箱に桐が使われるなど、自然のエアコンディショナーとしての機能に先人達が早くから気づいたことが、ここ会津に桐文化を根付かせてきたと言える。

みなさんのおかげです








【2006/04/23 09:49】 | 東北
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 100万年前の大気を閉じこめているとされる南極の氷が話題を呼んでいる。
 人類が目にする最古の氷である可能性が高い。南極観測隊が1深さ3028メートル付近で採取し「しらせ」で持ち帰ったもの。100万年前の空気の味は・・・

 世界最古の南極の氷とはどんなだろうか。この氷はただの水の固まりとはちがうそうだ。100万年間の気温の変化や二酸化炭素の変化がわかると研究家が期待をよせている。

 わたしも数年前に乗組員から氷をもらったことがある。
 南極の氷というのは、水でなく雪が凍りついたもので、冷えて押し固まってできていくという。だから、数万年前の空気が気泡となってたくさん含まれている。オンザロックにしていただいたが、溶ける時、パチパチパチという音がするのが特徴。また、口に含むと、太古の泡が少しずつ弾けていくのが舌で感じられるところが、普通の氷では味わえないところである。
 「空気の化石」とか「大気のタイムカプセル」と言われる南極の氷は「太古へのロマン」あふれる氷である。

 100万年前の空気を吸い込んで、地球創世期を感じてみたいと思ったところである。

みなさんのおかげです







【2006/04/21 06:01】 | 諸々雑感
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 桜でも見に行こうかと長男に誘われて、できれば騒々しいところは遠慮するよと言うと、それなら、広沢池(ひろさわのいけ)周辺がお勧めとなり出かけてみた。池の縁にて
 北大路通りを西へ走り、金閣寺、龍安寺の前を通りあとは一本道。観光バスなどで道路はかなりこんでいたが、やがて右手に広沢池が見えてきた。しだれがきれい

 ここは、嵯峨野になるのだが、観光客が訪れる嵯峨野、嵐山ほどの賑わいはない。目に入るのは、池と、背後の小高い山、そして西に広がる田園風景。そんな静かな風景が広がる広沢池、平安朝より多くの人に愛されたいわれ深い洛西の別天地。池の周辺と付近を散策すれば、古来から愛されている嵯峨野の風情が十分すぎるほど実感できる。寺院を背景に

 昔ながらの風景が残っているためか、時代劇のロケ地としてもこの池周辺はよく使われているそうである。ここは、「歴史的風土特別保存地区」に指定されていることもあり、店、民家、看板、電柱などもなく、映画のロケには最適である。

 着いたときは、プロカメラマンのような人も含めて4人の先客がいるだけだった。今は桜が満開であったが、古来より月見でも有名である。
 ここは、いにしえの自然をそのまま味わえる京の別天地と言える。

みなさんのおかげです






【2006/04/17 21:27】 | わたしの京都
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エセ男爵様から次のようなコメントを頂戴していた。

「距離感がイマイチなのですが、いくら徒歩の時代といえども、平泉から鎌倉まで、2週間もあればたどり着けると思うのですが、…」

 さすが、エセ男爵様、推測の通り。4月30日に義経が自害し、43日後の6月13日に酒に浸した首が鎌倉に届けられたとある。岩手の平泉から鎌倉まで、およそ500キロ。当時は、1日30㌔は歩いたはずだから、平泉から鎌倉まで2週間もあれば行けたと思われる。それが実に43日もかかっているというのは、誰が考えてもこれは遅すぎる。
 水戸光圀以来、歴代の水戸藩主が学者を集めて編纂した『大日本史』には、「義経は衣川の館に死せず、逃れ蝦夷に至ると。いわゆる義経の死したる日と、頼朝の使者、その首を検視したる日と、その間へだたること43日、かつ天時暑熱の候なるをもって、たとえ醇酒にひたし、またこれを函(=棺)にすといえども、この大暑中、いずくんぞ腐爛壊敗せざらんや。また誰か、よくその真偽を弁別せんや。しからばすなわち、義経死したりと偽り、しかして逃走せしらんか。」とある。
 そして、6月13日(6月は現在の8月)に鎌倉で首実検を命じられた者も、「予州(義経)の首ではない。不審の点がある。」「すでに焼き首となった以上は日頃とは違って見える。」と言っているし、頼朝も、すぐに偽の戦、偽の首に気付いていて、一月後、再度、平泉を攻め込んでいる。
 ならば、誰の首だったのか?という疑問を持つ。

 それは、義経の影武者の首であったと言われているのだ。その名は、杉目太郎行信(すぎのめたろうゆきのぶ)という家臣。家臣により金成に運ばれ埋葬された
 彼は、義経の母方のいとこで、年や背格好が義経と似ていた。そして、彼の供養塔は、宮城県栗原市金成町にあり、命をかけて義経をかばった影武者として、人々の思いが今も語り継がれているのだ。
 『吾妻鏡』には、追討の1年前に義経はさらに北を目指したという「北行伝説」に関わることが記されている。そして、それを裏付けるように岩手、青森、北海道、そして大陸へと点々とした痕跡があるから不思議だ。

みなさんのおかげです







【2006/04/15 08:57】 | 義経伝説
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 高校の歴史の時間、「義経は大陸に渡りとジンギスカンになった。」と習った。以来、ずっとその説をわたしは信じている。
 先生の話で一番印象に残っているのが、「義経」を音読すると、「ジンギスカン」になると言うことであった。もうひとつ、自害した義経の首実験も作為が感じられて、実は生きてそのまま青森、蝦夷を通り大陸に渡っていったということだった。以来、「これは、真実。」と信じて疑っていない。
義経伝説のバイブル 
 これを裏付けてくれるのが高木彬光の推理小説さながらの『成吉思汗の秘密』である。
 名探偵、神津恭介が、「歴史学の常識」を破って、「義経=ジンギスカン」を証明していくという筋書きである。
 ジンギスカンの生い立ちは、多数の謎に包まれている。当初テムジンと名乗ったジンギスカンはニロン族の出身で、父の名はエゾカイだったという。神津探偵は「ニロン=ニホン=日本」」「エゾカイ=蝦夷海=北海道の海」のことと言っている。
 そして、肝心の「源義経」の音読は「ゲン・ギ・ケイ」で、それがなまって「ゲンギス→ジンギス」になったと推理している。
 神津探偵は、平泉から鎌倉に運ばれた義経の首は別人のものだったとも推理している。義経の死から鎌倉到着まで43日もかかったのは、義経の首を腐らせるための時間稼ぎだったのではないかと。なるほど…、と頷いてしまう。
 ジンギスカンになってアジア大陸で大活躍したという義経伝説の書「成吉思汗の秘密」は、歴史のロマンにたっぷりとひたらせてくれる。


みなさんに感謝一杯。






【2006/04/12 05:22】 | 義経伝説
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 和菓子によく使われる寒天の原料は、テングサオゴノリといった海藻だが、この寒天づくりがもっとも盛んなのは、不思議なことに海なし県の長野県である。テングサ
しかも、今や長野の伝統産業とであり、江戸末期には、諏訪地方で寒天づくりが始まっていたという。

 この「寒天」の発祥や製法には次のような逸話が残っている。
 ある冬のこと、京都伏見の旅館の主人であった美濃屋太郎左衛門が、参勤交代の途にある薩摩藩主島津公の御宿泊の栄誉に預かりいっぱいの料理でもてなしをしたが、その中にテングサを煮てつくったトコロテン料理があった。その際、残ったトコロテンを戸外に置いておいたところ、厳寒期のためこれが凍結し、数日後には自然乾燥の状態で乾物になっていた。太郎左衛門は不思議に思いながらこれを煮てみたところ、元のトコロテンになることを発見し、種々研究を重ね「寒天」の製造を編みだし、京都で和菓子に用いられるようになり発展してきた。厳寒期の2ヶ月間ほどで製造する
 更に、この「寒天」に目をつけたのが、信州の行商人だった小林粂左衛門で、ふるさとの厳しい冬の寒さ、乾燥した空気、きれいな水の諏訪地方にピッタリと思い、その製法を持ち帰った。そし、原料のテングサは伊豆から買いつけて製造が始まり農家の副業として広まり、信州の地場産業として今や発展するようになったという。
 京都から信州へ、そして、太郎左衛門と粂左衛門のひらめきが、日本独特の「寒天」の発明・考案につながっている。

みなさんお願いします。






【2006/04/08 17:32】 | 伝統・文化
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 あずきのあんをうるち米の粉で包んで焼いた焼餅が京都に生まれ「ぎんつば」と言われ庶民にたいへん喜ばれていた。その「ぎんつば」が亨保年間に、江戸に渡り江戸風の工夫を凝らして銀よりも金が上というので「きんつば」になったと言われ、吉原土手付近の屋台店が人気を博していた。ちょうどいいあまさである 
浅草吉原で謳われた名物に数あれども、花魁や太夫たちの心を捉えたものが「年期増しても食べたいものは、土手のきんつば さつまいも」。これを浅草の「満願堂」ではこれを「芋きん」として販売している。芋のめいぶついもきん
わたしは大丸東京のいわゆるデパ地下で買うのだが、行列が絶えない。ガラス張りの中で芋きんを作る様子が見られ、それは、まさに職人技。さつまいもをつぶして裏ごしし四角にしたあんに、うすいうすい生地をつけ、手際もよく焼いていく。
吉原にあって、さつまいもの持つ味わいを損なうことなく、それでいて手間暇かけたその作り方に、この上無い江戸庶民の「粋」を感じることができる。

みなさんのおかげです。






【2006/04/04 22:16】 | 伝統・文化
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  岡崎疎水あたりの桜を愛でに出かけてみてはいかがでしょうか。これからだと混み合うので、今が絶好の機会だと思う。
 蹴上(けあげ)のインクラインのかつて使われていた線路の上に一面の桜のトンネルができる。ゆっくりと通り抜けて、次は南禅寺へ。亀山法皇によって建てられた臨済宗の寺院。三門からの景色は絶景である。平安神宮へ向かう疏水沿いの道は桜並木。水面に映る桜もまたいい風情が漂う。
まだ淡いもも色であった十石船から楽しむはいかが。要予約 疏水沿いを歩きながら、花筏を楽しむことができる。これからは「岡崎桜回廊十石舟めぐり」で流れが賑わいをみせる。ここ数日冷え込みがつづいたためか、疏水沿いの桜のつぼみはまだ固め。見ごろはもう少し後になりそう。
 そして、とどめに平安神宮紅しだれのシャワーが降りかかるのを楽しむコースがおすすめである。

みなさんのおかげです。







【2006/04/01 23:28】 | わたしの京都
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