こちら庄内平野ど真ん中の人間。庄内の自然豊かで芳醇な文化、人々の暮らしを気ままにつづっています。
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エセ男爵様から次のようなコメントを頂戴していた。

「距離感がイマイチなのですが、いくら徒歩の時代といえども、平泉から鎌倉まで、2週間もあればたどり着けると思うのですが、…」

 さすが、エセ男爵様、推測の通り。4月30日に義経が自害し、43日後の6月13日に酒に浸した首が鎌倉に届けられたとある。岩手の平泉から鎌倉まで、およそ500キロ。当時は、1日30㌔は歩いたはずだから、平泉から鎌倉まで2週間もあれば行けたと思われる。それが実に43日もかかっているというのは、誰が考えてもこれは遅すぎる。
 水戸光圀以来、歴代の水戸藩主が学者を集めて編纂した『大日本史』には、「義経は衣川の館に死せず、逃れ蝦夷に至ると。いわゆる義経の死したる日と、頼朝の使者、その首を検視したる日と、その間へだたること43日、かつ天時暑熱の候なるをもって、たとえ醇酒にひたし、またこれを函(=棺)にすといえども、この大暑中、いずくんぞ腐爛壊敗せざらんや。また誰か、よくその真偽を弁別せんや。しからばすなわち、義経死したりと偽り、しかして逃走せしらんか。」とある。
 そして、6月13日(6月は現在の8月)に鎌倉で首実検を命じられた者も、「予州(義経)の首ではない。不審の点がある。」「すでに焼き首となった以上は日頃とは違って見える。」と言っているし、頼朝も、すぐに偽の戦、偽の首に気付いていて、一月後、再度、平泉を攻め込んでいる。
 ならば、誰の首だったのか?という疑問を持つ。

 それは、義経の影武者の首であったと言われているのだ。その名は、杉目太郎行信(すぎのめたろうゆきのぶ)という家臣。家臣により金成に運ばれ埋葬された
 彼は、義経の母方のいとこで、年や背格好が義経と似ていた。そして、彼の供養塔は、宮城県栗原市金成町にあり、命をかけて義経をかばった影武者として、人々の思いが今も語り継がれているのだ。
 『吾妻鏡』には、追討の1年前に義経はさらに北を目指したという「北行伝説」に関わることが記されている。そして、それを裏付けるように岩手、青森、北海道、そして大陸へと点々とした痕跡があるから不思議だ。

みなさんのおかげです







【2006/04/15 08:57】 | 義経伝説
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